建設コンサルタンツ協会 北陸支部・機関紙への寄稿文 其の一

初めての韓国訪問からその後の訪韓 ― 山岸 俊男(当社技術顧問)

yamagishi私が初めて韓国を訪問したのは、1989年(H元年)新発田土木事務所に勤務していたときである。きっかけは、事務所近くの高沢組社長高沢氏が市内の小学生による韓国ウイジョンブ市と毎年スポーツ交互交流をおこなっていた。何とか土木事業でも子供たちの交流が図れないか、と思いをめぐらしていた。

そんな折、駅前通り商店街や中央商店街などの方々と歩道アーケード改修に伴い来客者サービスのために、歩道のセットバックによる路上駐車帯を確保しようと議論したが、結果的にまとまらなかった。そこで、子供たちの絵を歩道アーケード内に展示する提案をしたところ同意を得た。

絵は8月10日が「道の日」である、その日に向けて市内の小学校生から自分の住まいの街や道の絵を描いてもらうことにした。早速新発田市教育委員会へ出向き市内の小学校へ依頼したい旨を伝えたところ、「最近の小学生は絵を描くに大変忙しいので無理でしょう」とのこと。「えッ、そんなに忙しいんですか」と尋ねたところ、「交通安全月間のポスター、火災防火月間のポスター、海の日・・、清掃・・と多いので・・」なるほど、言われてみると多忙である。ここで引き下がっては、商店街の方々に申し訳ないので、「強制はしません。各校1枚でも2枚でも、20~30枚集まれば」と懇願したところ、ようやく了解を得ることができたのである。

そして、応募のあった学校の中で、赤谷小学校は生徒数も少ないのに十枚ほどの応募があり感謝感激であった。中心部の二葉小学校では120枚ほどの提出があり、驚きと感動であった。結果的に絵は150枚を越える枚数が集まった。教育委員会からは40~50枚集まれば良い方でしょうと言われていたので、建設業協会新発田支部青年部とは50枚の展示準備を進めていたのである。

急遽、大きく計画変更を余儀なくされ、額に入れての展示から桟木に挟む展示となった。展示期間中に破られはしないかと心配したが、新発田市民はマナーもよく、一枚も破損することなく終えることができたのである。

展示期間は8月10日から新発田夏祭りの終了までとし、初日は道の日であることから、道路に関係するイベントを企画した。それは駅前通りを正午から3時間ほど交通止めをして、建設機械や除雪機械、道路パトロールカーなどを展示し、自由に試乗してもらった。路面にはチョークで自由に絵をかいてもらい、また商店街からは金魚すくいや氷を10mほど並べてその上を裸足で歩く遊び場などを提供してもらった。

この企画には新発田市とともに警察、教育委員会、商店街、新潟日報新発田支局、中でも力になっていただいたのが建設業協会新発田支部青年部と当事務所若手職員であった。建設機械の試乗会では、乗るとき、車内の説明、下りるときの補助・説明員を配置し、安全に配慮した。子供たちから人気が高かったのは、運転席の高いグレーダーとサイレンの音と赤色回転灯の道路パトロールカーであった。

当日のイベント終了後は、特に交通止め区間へ進入する車両への協力要請などの裏方に回ってくれた建設業協会新発田支部と当事務所若手職員へのねぎらいを兼ねて関係者全員で近くの諏訪神社の豊谷殿にて反省慰労会をやり、建設業協会新発田支部と当事務所の一体感が強まった。

このようにして発注者と施工者、関係する団体などと一緒になって地域振興に資するイベントを企画して、一緒に行動することにより一般市民に対しインフラ整備への理解と信頼感が醸成された。

また、施工者との関係においては、施工中などでお互いに困った時、トラブル発生時などにすぐに相談し合える話し易い雰囲気つくりができた。

試乗会や展示期間も終わり、絵の返還と御礼に各小学校へ廻って、二葉小学校長へお礼に伺うと当校には絵に熱心な先生がおられて・・とのこと、やはり先生の熱意は子ども達へ通じていると感じたのである。当時われわれの日常業務の工事説明会や用地交渉にも通じると思ったのである。

そして、これほど多くの絵を応募いただいたので、この絵をもとに海外の小学校と交流をしませんか?と伝えたところ、大賛成を得た。中国山東省済南市に私の友人李克強さんがいるので、そこの小学校と絵の交流を始めようと考えたのである。
李克強さんとは、私が「土木技術」という雑誌に投稿したY型Z型擁壁という記事をみて、ぜひ中国の土木雑誌「公路」へ中国語に翻訳投稿したいのでと了解を求めてきたのが縁で、お付き合いをすることになった。彼は済南高等専門学校の土木科の教員である。

話を元に戻して、当時新発田市長の近さんへその旨を伝えたところ、「いや中国は止めて、韓国ウイションブ市とやってほしい」との強い要請があった。

そのころ韓国の領事館は、白山浦にあって、そこへ120枚の絵を持参して趣旨を話し、交流のお願いをしたら、「国同士の案件は取扱うが、民間の案件は扱いません」と断られたのである。困ったが、ここで引き下がっては意図したことが切れるので「誰か日本語を話せる人を紹介してほしい」と食い下がったら、ウイジョンブ市の金副市長を紹介してもらった。

しかしウイジョンブ市役所へ電話をしても金副市長が直接でることもないので、はじめての韓国語による電話のやり取りを当時新発田市職員で通訳担当していた高橋美恵子(現斉藤)さんから「ヨボセヨ、イルボン・・・」とみっちりとにわか勉強による指導を受けた。

そして韓国ウイジョンブ市役所へ電話を入れ、なんとか金副市長へつながったので、趣旨を話し理解してもらい、絵の交流を始めることができたのである。

その後がまた大変であった。1ヶ月後ほどして1階の財務事務所から「だれだ!海外へ電話したやつは?3千○○円を払え!」とどなられたのである。結末は事情を話して一件落着したが、土木屋がこのようなことをやると、いろいろと物議をかもすことになる見本でもある。

近年の土木部職員は、多忙でこのようなことまで手出しができず、やろうとしても同僚や上司からの協力や理解を得にくい現状にあるのかなと思って少し残念でもある。

そのようなことから始まった絵の交流がもとで、スポーツ交流団と一緒に韓国ウイジョンブ市を訪問する機会を得たのである。これが私にとって初めての韓国訪問である。

ウイジョンブ市長を表敬訪問したときに市庁舎の1階ホールの展示室に私が送った絵が展示してあり、同行の子供たちの中に自分の絵や友人の絵を見つけて喜ぶ様子を見て、絵の交流を始めてよかったと強く感じたのである。

そして、翌年にはウイジョンブ市のスポーツ交流少年団の団長として来新されたウイジョンブ市長から同市の絵を持参いただき、新発田市の歓迎レセプションの中で、絵の贈呈セレモニーを企画していただき感謝感激である。

翌日いただいた絵は、すぐに商店街に展示したところ、ウイジョンブの子ども達が自分の絵や友人の絵を見つけ喜び、付き添ってきた親子などは大きな感動であったと思われる。

ウイジョンブ市長から同市の小学生の絵を受け取る(歓迎レセプションにて)

ウイジョンブ市長から同市の小学生の絵を受け取る(歓迎レセプションにて)

韓国の子供達から届いた絵

韓国の子供達から届いた絵

このときのことは、私にとって生涯大切な思い出であり、当時やらせてもらった土木所長や同僚、後輩の方々、ご協力いただいた方々に今も感謝しています。そのときが縁で今でも多くの方々と接点がつづいており、大変うれしいことで私の宝でもあります。

2回目の訪韓は、絵の交流が続いていることもあって、平成4年の夏にスポーツ交流の訪韓ウイジョンブ市行きの機会に恵まれた。そのときソウルからウイジョンブ市へ行く道中での強烈な印象が忘れられないので、そのことを記述しておきたい。

ウイジョンブ市はソウル特別区から北へ20kmほどのところに位置しており、当時金浦空港からバスで移動していたときに、漢江に架かる幸州大橋を渡っていると、すぐ隣に平行して新幸州大橋が工事中であるのに、主塔が折れ曲がり中央部が連続して落橋しているではないか!これはどうしたことかと尋ねたが、ウイジョンブの方々は技術者でないため「よく解らないが格安受注による手抜き工事だ」との回答であった。

その時、昭和56年に小千谷大橋の工事中の桁が強風で落下した事故を思いだした。この時は鋼桁の架設中で、最初の桁を架けてその日の作業が終わったが、架けた桁を橋脚に固定してなかったため、強風で橋脚上面をすべり移動、落下して、アメのように曲がってしまったのである。

橋梁工事で手抜きなどすれば、落橋もあり得るであろうと思ったが、なぜ落ちたのか原因は?ずっと気になっていた。

新幸州大橋の落橋の様子:右側の幸州大橋をバスで通過しながら衝撃的な光景は、忘れられない

新幸州大橋の落橋の様子:右側の幸州大橋をバスで通過しながら衝撃的な光景は、忘れられない

絵の交流は、その後しばらく続けられる中で、他に新発田市民からも歌や踊りなどの文化芸術の交流が始まったが、日本と韓国の間に教科書問題や竹島問題など政治的な問題が生じて各種の交流が途絶えた。しかしスポーツ交流は中断もあったが、現在、子ども達のスポーツ交互交流は続いている。

また平成17年に加治川村との合併により、同村が平成11年から韓国京畿道漣川郡全谷邑と北緯38度線上の村同士として、子ども達の交流が行われていたので、現在はそことの交流が更に加わっている。

3回目の訪韓

その後、新潟県を退職して(株)キタックにお世話になった。社長の中山輝也氏は多才な方で海外、特に対岸諸国の中国、韓国、ロシアなどとの技術交流を深めていた。そんな折、平成15年に日韓技術士会議が韓国束草市で開催されるので、何か発表をしないかと誘われたのである。     

そこで第1分科会の「物流、リサイクルと環境」の物流で環日本海物流ルート構想を提案した。日本列島は日本海国土軸を中心に北海道から九州までのルートがつながっている。課題は海峡部で対馬海峡、間宮海峡、宗谷海峡である。

日本から韓国へ渡る対馬海峡は、かなり前から日韓トンネル構想が叫ばれ、ルート、工法等も検討されている。

環日本海物流ルート構想

環日本海物流ルート構想

対馬海峡横断図 日韓トンネル工法案

対馬海峡横断図 日韓トンネル工法案

対馬海峡には、壱岐と対馬の2つの島を経由して釜山へ渡るルートが最も実現性が高い。工法的には海底トンネルとなるが、シールド工法と在来工法が考えられる。在来工法は、青函トンネルのように海底からトンネル上面までの被り(厚さ:青函は100m)が必要となり、ある程度深くなる。一方シールド工法の場合は被り厚さは低減できトンネル延長の低減も図れる。

また壱岐と九州間は、シールド工法の他に、水深も浅いことから海上橋梁案も考えられる。

この九州から韓国へのルートが、実現していない理由の一つは、自由経済圏が韓国だけであり英仏ユーロトンネルと大きく異なるものである。

第1分科会「物流、リサイクルと環境」での発表 (当時はOHPを使用しての発表である)

第1分科会「物流、リサイクルと環境」での発表
(当時はOHPを使用しての発表である)

環日本海物流ルートのアジア大陸内のルート案は、韓国(釜山⇒ソウル)から北上すると北朝鮮(平壌)、中国(瀋陽⇒長春⇒哈爾浜)、ロシア(ハバロフスク⇒ラサレフ)となる。これらの地域は鉄路、道路でつなぎ、これら地域が拠点となって周辺地域への波及効果を期待するものである。

間宮海峡は、本来、「松田・間宮海峡」と呼ばれてもおかしくないが、これに触れると長くなるので少しだけ記述する。松田伝十郎は頸城郡鉢崎村(現柏崎市)出身で江戸時代に間宮と共に蝦夷地調査にあたり1808年樺太(サハリン)の西海岸を松田が、東海岸を間宮が小舟にて島であるか、大陸の半島であるかの調査を行った。

間宮は太平洋側の東海岸沿いを行くが、波が荒く途中で断念し江戸に戻る。松田は北上を続け島であることを確認して江戸に戻り、幕府に報告した。いろいろあって翌年間宮は再度、樺太調査に入り大陸側にも渡り現地人との聞き取り調査などを行っている。

間宮海峡は、延長8.4km水深も浅く14~20mであるが、冬期を考慮してトンネル案が有力でシールドまたは沈埋トンネルであるが、沈埋は施工上、海流などに影響を受けるが、水深的には条件が良い。そしてサハリンに渡り、南下してサハリンから北海道へとつなぎ環日本海物流ルートの完結である。

間宮海峡

サハリンから北海道宗谷岬までの宗谷海峡は延長51.4kmと長いが水深60~67mと一定していることと、冬期を考慮してトンネル案であるが、トンネルズリを転用して築島による一部橋梁案も考えられる。

宗谷海峡

過日の新潟日報(6月17日付け)にサハリン(間宮海峡)に架橋計画(鉄道)が報じられていた。水深が浅いので橋梁タイプが選定されやすいが、将来的な維持管理や特に冬期間の管理面から大きなリスクを抱えた計画であると考えられる。

この日韓技術士会議の時、コーデネェター兼通訳をされた全相伯氏((株)韓国総合建築士事務所社長)に新幸州大橋の落橋について聞くことができた。落橋原因は、設計の未熟不備、施工及び施工管理の未熟、経験不足などであるとのことであった。

その改善策として、施工者の施工能力を判断するために、合わせて入札の不正防止のためにPQ制度(事前資格審査制度)が導入されたとのことである。

会議終了後の現地見学会:全相伯氏と朝鮮南北 戦争時の捕虜収容所跡にて

会議終了後の現地見学会:全相伯氏と朝鮮南北
戦争時の捕虜収容所跡にて

韓国で導入されたPQ制度は入札の途中段階で抽選という行為が挿入されており、日本では最終決着の際に抽選行為が行われるのと異にしている。それは入札後に+5~-5%の札を裏返して引き、入札金額に乗じさらに事前付与点数が乗じられて入札決定者が決まるもので、契約金額は札入れした金額である。

なぜこのような仕組みを導入したのかと尋ねたら、「国民に対する談合防止策の説明である」との明快な回答であった。確かにこの仕組みでは入札前に決定者を決めてもその確証は極めて薄いものとなる。

当時土木部監理課の入札係長へ勉強に訪韓しませんか、と言ったところ大変興味を示したが、監理課長のところでダメ押しされた。

その後も全相伯氏との交流が続いたが、平成19年1月に(株)キタックを退社してからは途絶えていた。しかし、その後訪韓の機会があり、また交流が復活するのである。

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yamagishi山岸俊男プロフィール
昭和14年新潟県新津市(現:新潟市秋葉区)生まれ。
昭和38年新潟大学卒業、新潟県入庁。土木部道路建設課長など歴任し、平成10年退職。同年から㈱キタック専務取締役、平成19年1月退社。平成19年から23年まで新潟大学工学部非常勤講師。現在は新潟水辺の会副代表。
著書・論文に「新編防雪ハンドブック」(日本建設機械化協会、共著)、「君ならどうする?」―建設技術者のための倫理問題事例集―(共著、公益社団法人地盤工学会)、「日本の土木遺産」(共著、公益社団法人土木学会)など。